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インタビュー
インタビュー

 写真: ddp/Stollarzルディー・フォラー

我が国の世界チャンピオン:ルディー・フォラーへのインタビュー

2006年5月23日 (火曜日)

1954 – 1974 - 1990:ドイツサッカーのマジックナンバー。当時のワールドカップの英雄は今日の若い後継チームのチャンスをどのように見ているか? これらの年の世界チャンピオンとの会見シリーズの締めくくりとして、スポーツジャーナリストのヴォルフガング・ゴルツが、1990年にローマでサッカー世界チャンピオンとなったルディー・フォラーと話した。

 
フォラーさん、まずは定番の質問をさせていただきます:なぜドイツは7月に世界チャンピオンになるのでしょうか?
 
ルディー・フォラー:少なくとも情勢は良好です。ワールドカップは自国で開催され、我々は、コンフェデレーションカップと同様に非常な高揚状態を体験するでしょう。ですから、我が国のチームが終わりまで残るチャンスは十分にあると確信します。次のように言いたいと思います:ブラジルが最も強力な優勝候補であり、イタリア、フランス、アルゼンチンが優勝を争う国々に属します。
 
オランダはそれに入りませんか?
 
はい。


ワールドカップを目前にして、選手達は何を感じているのでしょうか、サッカーの大祝典への精神的重圧、あるいは意欲のどちらが大きいのでしょうか?
 
疑問の余地なく、意欲です。最初の試合の前には精神的重圧を感じるものです。それは、最後の試合、すなわち決勝戦の前よりも、ずっと興奮度が高いからです。何週間にもわたる準備は長く、苦しいものです。
 
貴方の最初のワールドカップを想起されるとき、何がすぐに思い出されますか?
 
特に、当時は今日と比べてマスメディアの情況が全く異なっていたということです。全ては20年も前のことです。私はメキシコではすでに26歳でした。かの国はサッカーに高揚しており、素晴らしく気分が盛り上がっていました。チームにはその反対に沢山のごたごたとストレスがありました…フランツ・ベッケンバウアーが始めてトーナメントにおけるチーム監督となっていました。でも我々は当時既に、私がいまだに世界で最も素晴らしいと思うスタジアムにおいて、副世界チャンピオンとなりました。私はあのアステカ・スタジアムに惚れ込んでいます。私にとっては何時までもサッカーのメッカです。今日いたるところに素晴らしいサッカーの殿堂が建っているにしても。
 
1990
年にイタリアで世界選手権を勝ち取った後に、ワールドカップ優勝杯をローマの夜空に高々と掲げたとき、何をお感じになりましたか?
 
素晴らしかったです。しかし極め付きの瞬間は、試合の最後の45分でした。アルゼンチンはピッチに9人しかおらず、にっちもさっちも行かない状態でした。試合の最後の数分は非常に長く感じられることがあるものですが、これらの数分を私は享受しました。我々はボールを行ったり来たりパスし、アルゼンチンの選手は全くボールに手が届かなかったのです…この、世界チャンピオンであるという意識は、筆舌に尽くしがたいものです。ドイツ選手権保持者になるときは、それは単なるスナップショットに過ぎません。しかし世界チャンピオンは永遠に通用します。おかしいですが、あらゆる他のスポーツ種目では、次回のワールドカップ後にはただの元世界チャンピオンとなってしまうのです。サッカーでは永久に世界チャンピオンのままです。オリンピック優勝者がいつまでもオリンピック優勝者であるように。

 
そして1994年米国で対ブルガリの1:2 でトーナメントから敗退したときは、どんなことをお感じになりましたか?
 
勿論非常に落胆しました。それは、我々はドイツではかなり贅沢に慣れていたからです。それ以前の3回のトーナメントでは常に決勝戦に到達していました。しかし我々は、時として敗者であることを受け入れるに足りるプロ意識を持っています。しかし連邦監督のベアティ・フォークトは気の毒でした。
 
ワールドカップのタイトルを肩書きとして商用の手紙に記入することは考えられますか? 


いいえ、それは考えられません。良いことに、それをしなくとも、誰でもそれを知っているのです。
 
貴方は3回もワールドカップを選手として、2002年には監督として体験なさいました。何が貴方にとって重大な違いでしたか?
 
選手としては全体の一部です。勿論のこととして、スポーツ的な成功と独自の業績を最大限もたらしたいと考えます。しかし選手には責任はありません。ですからトーナメントをはるかに楽しむことができます。監督としては絶えず考え事で頭がいっぱいです。ワールドカップ・トーナメントは、それが終わったあとで初めて、回顧して楽しむことができるだけです。
 
フランツ・ベッケンバウアーであれ、貴方であれ、ユルゲン・クリンスマンであれ、ドイツ代表チームの監督への任命は多くの場合に思いがけない展開を示しています。「チーム監督となった」とお伝えになったとき、奥様はどのように反応なさいましたか?
 
勿論驚いていましたよ。情況を説明した後で彼女は、「当然、お受けしなくてはいけない」と言いました。彼女はそれ以前に既に、サッカー選手と結婚することが何を意味するかを承知していましたから。
 
監督としては絶えず公平であるわけには行きません。それは負担ですか?
 
公平であることの定義は人それぞれで異なります。誰にも気に入るようにすることは、チームの陣容の際には不可能です。しばしば快適でない決定を行って、胸中に暖めなければなりません。
 
ユルゲン・クリンスマンはゴールキーパーの問題に答えを出しました:カーンの代わりにレーマンが主席ゴールキーパーです…貴方にとって一番難しかった決定は何でしたか?
 
大きなトーナメントに出向くときは、その前に必ず2人や3人が参加できるかどうか危ないのです。それらの選手に、「君は参加できない」と言わなければならないことは、簡単ではありません。ワールドカップの決勝戦の前もそれに似ています。1人、又は2人に、何故決勝戦に出場しないかを説明しなければなりません。私はそのために眠れなかったことはありませんでしたが、絶えず重圧がずっしりとのしかかっています。ゆったりとリラックスする時間はありません。
 
つまり選手としてワールドカップに参加された時の方がよかったですか?
 
いいえ、それは別の状態だっただけです。監督としての仕事は喜んでしました。浮き沈みはありました。結論としては良いことの方が多かったです。
 
メキシコにおけるワールドカップ決勝戦ではゴールキーパーのトニー・シューマッハーに、2002年には対ブラジル戦でオリバー・カーンに重大な過失が起こりました。それを選手として、又監督としてどう体験なさいましたか?
 
長時間 0:0 の状態でした。2002年には、1986年と同様に少し時間がありました。それは私にひどいショックを与えることはありませんでした。ミスはいつでも起こり、そしてゴールされます。しかしブラジルに負けていると、もっと攻勢に出なければなりません。そうすると、第二のゴールをシュートされる危険が非常に大きく、それが実際の起こりました。
 
そのような重大なミスについては、一定の間隔を開けて話すものですか?
 
いいえ、どうしてですか?
 
1990
年のあなたのワールドカップ優勝から今日までの間に、何が変化しましたか?
自らがプレーしている期間には、「これ以上早くはできない」と考えます。その後にしかし、試合がもっとアスレチックに、もっと早くなっていることに気がつきます。戦術においてはほとんど革命的変化はないでしょう。しかしトレンドは、走りにおいても思考においても迅速な選手を求めます。それに技術があいまって、調和しなければなりません。大切なことは、ミスをすることを恐れてはならないこと、ボールを獲得しようと欲しなければならないことです。11のプレーはずっと難しくなりました。以前はデュエルがつのると、その二人を邪魔しませんでした。今日では同時に23人がボールをキープする選手に攻撃を加えます。それは以前にはありませんでした。
 
貴方は1990年に現在の連邦チーム監督ユルゲン・クリンスマンと一緒に世界チャンピオンになられました。クリンスマンをどのような人間として体験なさいましたか?
 
ユルゲンはちょっと違ったプロ選手でした。長いトレーニングキャンプにいつも苦しんでいました。そのために今日彼は別の事柄を定めます。選手として我々は非常に上手く調和しました。その際に重要であったことは、誰でも他の人の成功を喜んだことです。我々の関係は常に友好的で心がこもっていました。
 


ワールドカップ1990に優勝したルディー・フォラー写真: picture-alliance / ASA / Werekルディー・フォラー
貴方は選手、監督、そしてスポーツディレクターとして仕事をされました。どの役割が一番好ましいですか?
チーム監督のポストを辞任した後、しばらく休止期間を入れ、長い時間をかけてよく考えてみました:自分のこれからの道はどの方向に行くのか? 私は幸運なことにいつでもバイヤー・レヴァクーゼンと関連を持っていました。そこで監督としてももう一度、クラブをピンチから救い出すことができました。現在はスポーツディレクターとして、最も快適です。両方の可能性を持つことは良いことです。
 
アイスランドの試合終了後の激怒されたあなたのテレビ出演が、2002年の副世界チャンピオンよりも、多くの人々の記憶にはっきりと残っているというのは可笑しなことではありませんか?
 
奇妙なことに、私の人生には、永久に残る二つのエピソードがあります。国内的には、言及されたヴァルディ・ハートマンのインタビュー、国際的には、フランク・ライカードがワールドカップ1990で私につばを吐きかけたことを巡る写真です。私が世界のどこに行こうと、必ずそれについて話しかけられるのです。このシーンは誰もが知っています。そこで最悪なのは、私につばが吐きかけられ、しかも退場までさせられたことです。そのとき私にとってひとつの世界が崩れ落ちました。私への退場命令の理由は、永久に明かされることのない審判自身の秘密であり続けるでしょう。
 
ワールドカップの入場券はどうなっていますか?
 
RTL
のためにギュンター・ヤオホと一緒に日曜日の試合を見守ります。全部で8試合です。私としては、例えばアフリカのチームに少々興味があります。いくつかのチームが思いがけない展開を見せてくれることを期待しています。その際には利己的な目的も追求します。もしかすれば、支払い可能な選手がバイヤー・レヴァクーゼンのためにいるかもしれません。
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ルディー・フォラー1960413日、オッフェンバッハ生まれ。1860ミュンヘン、ヴェアダ・ブレーメン、バイヤー・レヴァクーゼンで全国リーグの232試合をプレーし、132のゴールをシュート。1983年度の最多ゴールゲッター(23ゴール)及び年間最優秀サッカー選手。フランス選手権保持者となり、オリンピック・マルセイユでチャンピオンリーグの優勝者となりました。国代表チームのためには90試合をプレーし(47ゴール)、1992年にはヨーロッパ選手権の副チャンピオン、1990年には世界チャンピオンとなり、監督として2002年の副ワールドチャンピオンとなりました。
 

>>ヴォルフガング・ゴルツのポートレート

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