インタビュー
Foto: Erol Gurian
ゴルツが質問します ... ゲルト・ミュラー
2006年2月22日 (水曜日)
有名なスポーツ・ジャーナリストであるヴォルフガング・ゴルツがこのサイトにおいて定期的に著名なサッカー選手、監督、ファン、そして専門家にドイツでのワールドカップ2006で何を期待しているかインタビューします。今回は前ナショナル・プレーヤであり、ワールドカップにおける最多ゴール記録を誇るゲルト・ミュラーにワールドカップへの喜び、彼の最も有名なゴール、そして今日のサッカーの特徴についてインタビューします。
ミュラーさん、ドイツはなぜ2006年度ワールドカップで優勝すると思いますか?
私たちのチームが優勝するとは思えません。準決勝まで進出できることを望んでいます。しかしながら失望することはありません。私は駄目な予言者だからです。サッカー試合によく5ユーロを賭けるのですが、負けることがほとんどです。ナショナルチームの予想についてもそうなるかも知れません。
ワールドカップまであと一年ですが、段々と緊張感が高まってきていることを感じ取れますか?
コンフェデレーション・カップが序章です。それ以外そう緊張感が高まってきているとは感じません。このような緊張感はゆっくりと高まってきます。監督であるユルゲン・クリンスマンはワールドカップのためにそろそろナショナルチームのレギュラーを決めるべきだと思います。チームとしてまとまるためにです。そうすれば確実性が高まります。それにもかかわらずクリンスマンはまだいろいろなプレーヤを試しています。
貴方は昔、いつもバイエルン人のクールネスをもってプレーしていました。それともただクールに見えただけですか?
プレーヤは大試合の前に段々と緊張してきます。しかしフィールドに立つとこの緊張感はなくなります。私もそうでした。私はいつも強豪チームでプレーしました。このようなチームでは自動的に平静になれます。
Foto: Erol Gurianナショナルチームでは何度かスランプを克服しましたが。
よく覚えています。グリューンヴァルダースタジアムでの試合でした。このスタジアムでは観客席はフィールドのすぐ近くにまで伸びています。私の調子があまりにも悪かったので、いろいろと野次を受けました。「そんな駄目プレーで、ナショナルチームで一体どうするんだ?」等の野次です。ナショナルチームのシェーン監督の意見が翌日の新聞に出ていました。「そうならばミュラーをプレーさせるわけにはいかない」とです。
「しかし私をベッケンバウアーと交代させる」と言うのです。これはポジション的には適切ではありませんでした。しかしシェーン監督は本当にそうしたのです。私は交代するやいなや、すぐにゴールを決めました。フランスを5対1で破りました。そして私のスランプもこれで終わりました。
貴方はドイツサッカーの歴史におけるゴール記録保持者です。貴方の記念像はどこに立っているのですか?
記念像、そんなものはありません。必要ではありません。
貴方は爆撃機と呼ばれていました。チビあるいはデブのミュラーとも呼ばれていました。
爆撃機のニックネームのほうが良かったです。チビ、あるいはデブのミュラーは監督であったチャイコフスキーがつけたニックネームです。そのニックネームも真の意味での愛称でした。
ミュラーさん、貴方は1974年のワールドカップ決勝戦の対オランダ戦で2対1の決勝ゴールを決めました。このゴールになった地点を今でもスタジアムで見出すことができますか?
ミリメートルの精度で見つけることができます。このゴールはテレビで良く放送されます。良く覚えています。当時のことを考えながら、どのようにしてゴールを決めることができたのか、自分自身によく問いかけます。今でもよくゴールを決めたものだと思っています。
Foto: Erol Gurian正確にどのようにしてゴールを決めたのですか?
(ゲルト・ミュラーは立ち上がり、机に向かいます。プレーヤを示す像は何もありませんが、当時のシーンを説明します)。ここにオランダの選手が三人いました。私はさっと動きました。オランダの三選手も私について動きました。私はさっと戻りましたが、この三選手は戻りませんでした。右にいたボンホフからボールがきました。ボールが左足にぶつかり ...
ちょっと待って下さい。ボールを前方にトラッピングしたのではないのですか?
いえ、そうではないのです。ボールが私の左足にぶつかり、右足に飛び跳ねたのです。私はすぐに向きを変えてシュートしました。ゴールゲッターとして、ゴールがどこにあるかはわかっていました。
ミュラーさんはあらゆる角度からゴールを決めました。今日のゴールゲッターは大体、力一杯ボールを蹴ってゴールを決めようとしますが。
だから駄目だといつも話しているのです。力一杯蹴るだけでは、ボールは大体ゴールキーパーにぶつかります。ボールは必要に応じて軽く押したり、持ち上げたりしなければだめです。重要なことはボールがゴールラインを超えることです。小さなゴールでも一点は一点です。
貴方はFCバイエルンのアマチュアチームの監督です。若い選手にどのようなアドバイスを与えていますか?
私は自分のプレーのビデオを見せました。しかしビデオでは正しく学ぶことはできません。少しプレーを良くできるはずです。私のようにプレーしたのはブルーノ・ラバディアだけです。それ以外誰も私のようにプレーする選手はいません。
ミュラーさん、多数のゴールを決めましたが、正直に答えて下さい、当時は相手チームのディフェンスが弱かったのでしょうか、それとも貴方があまりにもうますぎたのでしょうか?
私のプレーが良かったのです。当時は中央にまだストッパーがいました。そしてリベロがカバーに加わりました。非常に厳しいディフェンスでした。今日、ディフェンスはフォーチェーン・システムを取っています。私はこのディフェンス・システムではもっと多くのゴールを決めたことでしょう。とにかく私は充分にゴールを決めました。
どのゴールが一番素晴らしかったですか、どれが最も重要なゴールになりましたか?
当然ながらワールドカップ決勝戦の2対1のゴールが最も重要なゴールです。しかし私が決めたゴールで最も素晴らしいものは1974年度欧州選手権決勝戦の対アトレチコ・マドリッドの再戦試合で決めた2対0のゴールです。 カペルマンからのセンタリングを、はっきり覚えていませんが、確か胸で受けたと思いますが、そのままボレーで決めました。
(備考: 決勝戦の第一戦は1対1の引き分けで終わり、再試合は FCバイエルンが4対0で勝利を収める。ゴールはミュラーとへーネスがそれぞれ2ゴール)
70年代と80年代に比較してサッカーのシステムはどのように変わりましたか?
当時はまだ5トップでプレーしていました。少なくとも3トップでした。今日ではせいぜい2トップか、あるいはトップに一人しか置きません。そしてフォーチェーンにより、当時よりディフェンスが一人増えています。昔はフランツ (ベッケンバウアーのこと) がリベロとして攻撃に参加すると、ツォーベルかブレ・ローツがフランツのディフェンスに回らなければなりませんでした。ストッパーの「カッチェ」シュヴァルツェンベックは攻撃には絶対加わってはなりませんでした。
貴方は今、監督として仕事をしていますが、以前に比べて、あまり表舞台に出なくなりました。これで満足しているのですか?
ええ、100%満足しています。私は契約を2010年まで5年間延長したところです。。私はもう5年で65歳になります。それで終わりにします。
Foto: Erol Gurianいーえ、私は充分満足しています。マネッジメントはできません。その才能がありません。ヘルマン・ゲルラントと一緒にアマチュアチームの監督として完璧な仕事をしています。
健康はどうですか、まだ時々足が痛みますか?
いーえ、もう大丈夫です。私はテニスを楽しんでいます。腰を痛めてますので、どっちみちサッカーはもうプレーできません。テニスは大丈夫です。それでも時々、少し痛みを感じますが。しかし全く運動しないと気分がすぐれませんので。
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ゲルト ミュラー
ゲルト・ミュラーは1945年11月3日にノルトリンゲンで生まれました。学んだ職業は織機工でした。
ブンデスリーガの427試合でミュラーは365のゴールを決めましたが、これは今でも最高記録です (第2位は268ゴールを決めたクラウス・フィッシャー)。
ナショナルチームの62の国際試合においてミュラーは68ゴールを決めました (第2位:ルディ・フェラーは90の国際試合で、またユルゲン・クリンスマンは108の国際試合でそれぞれ47ゴールを決めました)。ミュラーほどワールドカップで多くのゴールを決めた選手は世界においてどこにもいません: 14ゴール (1970年のメキシコ大会で10ゴール、1974年のドイツ大会で4ゴール)。ミュラーはブンデスリーガにおいて7回、得点王になりました (最高記録1970/71年のシーズンにおいて40ゴール)、4ゴールあるいはそれ以上のゴールを決めたのは4試合あります。
ナショナルチームにおいてミュラーは1972年に欧州選手権、そして1974年にワールドカップで優勝しました (その後ミュラーはナショナルチームから引退しました)。
FCバイエルンでは4回、ブンデスリーガのチャンピオンになり、DFBカップも4回獲得しました。欧州カップでは4回優勝し、世界カップは1回獲得しました。ドイツのサッカー選手として始めて、欧州年間最優秀選手に選ばれました (1970年)。
